ウィーン、我が夢の街(1)


 平成9年の夏、シンガポールから帰国して数日たったころだった。
 うさぎが、「今度はウィーンに行ってみたい。」と言い出した。

 (唐突な奴だね、こいつは。)と思いつつも、私も一度は行ってみたいところであったから、当然のごとく応諾。すると、いきなり「パンフレットも貰ってきてある。」だと(をひ)。

 パンフレットを検討すると、4月の頭が比較的安い。この時期は、私の業界も「休み」というわけではないが、役所側で一斉に人事異動があるので、仕事がストップするため、比較的休みやすい。よし。この時期にしよう、ということになり、4月1日から一週間ほどの予定でウィーンに行くことに決めた。こういうときに、自分だけで日程を決められるのが、自由業のありがたさ・・・というか、こんなメリットくらいないと、毎日12時間も、こんなわけのわかんない仕事はしていられないのである。

 ともかく、日程を決めた時点で8カ月間の余裕があった。この間で旅行の準備(ただ行くだけなら、パッケージツアーに申し込めば良いだけであるが、せっかく行くのだからオペラも見たいし、あの楽友協会ホールにも行ってみたい)は勿論のこと、つねに「4月1日から1週間は、ウィーンに行く」と言うことを頭において、仕事を進めていく必要がある。それと、いわゆる盆暮れの時期ではないので、休むことに一切クレームをつけさせないよう、普段の仕事をきっちりとこなしておかなければならない。そうすることで、仮にその時期に単発の案件が入ってきたとしても、自信を持って、蹴飛ばして行くことができる。

 そんなこんなで、ゆっくりと、しかし着実に、ウィーン行きの準備を進めることにした。

 97年暮れまでに、Biglobe/PC−VANのSIG「クラシック・コンサートホール」に登録された全てのウィーン旅行記を読破。ガイドブックを買い求め、オーストリア政府観光局に足を運んで情報収集。またインターネットで、ウィーン国立歌劇場などの公演スケジュールを調査。

 そして年明けから、うさぎが旅行代理店(3大テノール日本公演でお世話になったのがきっかけで、NHK放送センターの近くのJTBに決めている)に 足を運び、各種手配を開始した。

 問題は演奏会やオペラのチケット。郵便やファックスで直接申し込めるとガイドブック等には書かれているし、オーストリア政府観光局でも用紙をくれた。また、「現地にいけば何とかなる。」というパターンで行動する人もいるようであった。

 ただ、行く以上は多少のコストがかかっても確実にチケットを押さえてから行きたい。そこで、国内の代行業者(カーテンコール、チケットぴあ)に手配を依頼することにした。

 オペラの演目は、フィガロの結婚、マイスタージンガー、リエンツィのどれか。オーケストラコンサートは、ウィーン交響楽団のブルックナーの交響曲第6番を中心としたものと考えた。ウィーン フィルの「マタイ」もあったが、「ウィーンフィルはとれない」というのが固定観念としてあったから、考えていなかった。

 1月末から2月ころは、仕事が火を吹いていて、ほとんど動けなかった。そんな私に業を煮やしたうさぎが、ものすごい勢いで動き出した。ウィーン交響楽団のコンサートが、発売前にすでに会員で一杯になっているという連絡を受けたうさぎは、カーテンコールに「ウィーン・フィルのマタイ」の注文を出したのである。当然のことながら、カーテンコール側は難色を示したそうであるが、「何としても、黄金のホールで聴きたい」と、切々と訴えたところ、カーテンコール側も「では、やってみましょう」ということになった。

 そして、2日後、土曜日だった。電話が入り、うさぎが出た。「とれましたか!」と叫んでいる。まさかの事態が起こったのだ。ムジークフェラインザールでVPOが聴ける。それも、普段のプログラムとは違う「マタイ」である。

 奇跡はおこったのだった。

 そして、国立歌劇場の「リエンツィ」も、平土間席を確保。これで現地での「核」ができあがった。あとは、現地のプレイガイドであたってみることにした。

 その後は、スケジュールの調整。3月中に片づく見込みのついた仕事は極力終わらせてしまい、そうでない仕事は、4月中旬以降に先送り。こうして、ようやく仕事の段取りがついたのが3月25日ころ。あとは、携行品の買い出しや服の選定等で、あっという間に31日を迎えたのであった。


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