2000年6月の日記


2000/06/22

 書く、話すというということは、自分の意図するところが相手に理解してもらえるように、言葉なり文に表記して外部に表明する作業である。この単純な構造がわかっていない人が意外に多い。「神の国」発言など、その最たるものである。発言者がどういう真意を持っていたかなど、問題ではないのだ。仮に誤解だとしても、誤解を生むような言葉を平気で使うような言語感覚しかないこと自体が、もはや致命的欠陥なのである。
 ネットでも、稚拙な表現や練り上げられていない文章をアップして、その欠陥を突っ込まれると、「誤解だ。そういう意図で書いていない。」と言い逃れをする輩がいる。なかには、颯爽とオトモダチの擁護にでてきたは良いが、無理な擁護に走って馬脚を現すようなお目出度いのもいた。
 誤解だというなら、誤解されないようなものを書けばよいのだ。また表現に不備があるなら、それを改めればよいだけのことだ。それを、「礼儀」とか「場の雰囲気」とかといった都合のいい道具を持ち出して逃げようとするから、無意味なフレーミングが生じたりするのである。「言葉尻を捉えて」などという逃げ口上は論外。そういえば、産経新聞だかで、「言葉尻をとらえる」ことを揶揄するような記事が載ったということを伝え聞いたことがある。よもやとは思うが、仮に本当だとしたら、そんな、言葉への意識が鈍磨している奴が記事を書いている新聞など、金を出して読む価値はない。
 表現能力のなさを棚に上げて、受け手に転嫁してふんぞり返っている輩など、早々に消え失せるがよい。


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