大教室の講義はムナしいか


 中大の司法演習は、今年(2002年度)から受講希望者に「志望の理由」を書かせ、それを講師が読んで選抜するということになった。志望理由を書面審査して人を選抜するというのは、真偽不明に近い事実関係で判決を書けというに等しい。

 それはともかくとして、志望動機のなかに多く書かれている「論証パターン(笑)」に、大教室で行われる講義への批判がある。曰く、「大教室に詰め込まれて一方的に話を聞かされるだけで面白くない。」「無味乾燥である。」など...。「だから」司法演習に期待するって言われてもねぇ。

 しかし、「これは大教室であるが故」の不満なのだろうか。そもそも無能学者の講義などは、東京ドームでやろうが、NHKホールでやろうが、楽友協会のホールでやろうが、あるいはサロンでやろうが、面白くないのである。むしろ狭いところでやられる方が鬱陶しいだろう。

 大教室の講義というのが何故あるかといえば、まずはコストの問題である。たとえばウィーン国立歌劇場の引っ越し公演を、新国立劇場でやったらどうなるか。それは見やすいだろうが、まず入場料が途端に跳ね上がるだろう。NHKホールでやって6万円するのだから、新国立劇場のキャパでは10万円近くになるだろう。それと同じ理屈である。どうしても名教授の講義を少人数で聴きたいというのであれば、それなりの経済的負担を背負い込む覚悟をしなければならない。

 そもそも、なぜ「大教室の講義は...」と感じるのだろうか。それは、おそらく「大教室の後ろの方の席」に座っているからではないだろうか。教壇にたどり着くまでに沢山の人の頭が見える。ああ有象無象が一つの部屋に押し込められているなぁ...。俺もその一人か...空しいなぁ。これが日本の最高学府か...。そう感じるのだろう。

 だったら、解決は簡単。一番前に座ってしまえばいいのだ。そうすれば、他の学生は視野に入らず、あなたの前には憧れ(爆)の学者がいる。あなたと彼(または彼女)を隔てるものは、何もない。そう。まさにあなたのために講義は行われているのだ。後ろの連中は、教室の備品。あなたの経済的負担を軽くするためについて来ている「おまけ」に過ぎないのである。

 なんで急にこんなことを思いついたかというと、クラシックのコンサートに行くと、どういうわけかいつも最前列の中央に陣取っているオッサンがいる(ひとりはM田。もうひとり歌ものだけに来るのをK取という。)からである。彼らがそういう席を常に独占できていることにはいろいろと問題もあるようであるが、自らとステージとを遮るのを拒むという根性は大したものだ。私も、ときどき最前列で聴くことがあるが、まさに「私のために歌ってくれている」と思うことしきりである。ましてや学生であれば、学費さえ払っていれば、改めて高い入場料を払う必要はない。ちょっと早めに行けば最前列の席を取ることは可能ではないか。ぜひ、かぶりつきで大教室の講義を聴いてみて欲しい。

 その結果、良い講義だと少しでも感じれば受け続け、質問の一つもしてみるといい。あるいは「感想」を伝えるだけでもいい。逆に、その教授がどうしようもない授業しかできないと思ったら、思いっきりブーイングをしてやればいい(笑)。

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