法律実務家は作家ではない


 昨今の司法改革の「雑談」の中で、さも重要なことのようにいわれているのが「最近の受験生の答案は個性がない」ということである。いわく、つぎからつぎから、どの答案も予備校の論証パターンの引き写しであるとか、金太郎飴であるとか...まぁ言いたい放題である。
 しかし、そうであるならば逆に問いたい。「試験」とは何か?それは全員に同じ問題を出して、優劣をつけるものであろう。優劣をつけるということは、客観的ななんらかの基準があって、それに照らしてこいつは出来るとか出来ないとかということになるはず。つまり、試験である以上何らかの基準があるはずなのだ。そうであるとすれば、問いに対する答えが、その基準に向けて収斂していくことは、むしろ健全なことではないのか。むろん、法律の答案というのは、数学の答案のように唯一の解(解法は複数あるだろうが)があるわけではないだろう。しかし、そのような基準がない試験など試験とは言えない。
 独創性とか個性というが、そのようなものを、毎年1000人ちかい人間が「合格」ずる試験に求めるのが間違っているのだ。司法試験の論文式試験は、問われたことに対して淡々と自分の考えるプロセスをわかりやすく書いて相手に伝える能力をアピールすることにつきる。学者のつまらぬ学問的興味につきあっているヒマなど、実務家にはないのだ。そういう「独創性」とか「ユニークな発想」を「書いたもの」に求めたいのであれば、芥川賞か直木賞の選者にでもなったらいいのだ。

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