朝比奈先生とのお別れの会


 2月7日。朝比奈先生の「お別れの会」のために大阪に向かう。式典は12時からだが、一般のファンが献花できるのは午後1時からとなっていた。式典に参列できるのは関係者のみと思われたので、午後2時前に着けば一段落しているであろうと考え、10時26分東京発の「ひかり」に乗車。大阪に向かった。普段ならお弁当が楽しみであるが、今日は食べたいとも思わない。弁護士会のメールマガジンの編集をしたり、仕事の資料を読んだりして過ごした。午後1時16分、新大阪着。在来線に乗り換えて大阪駅へ。そこから環状線で福島駅へ。去年の「軌跡2001」で覚えたルートだ。

 ホールに向かう道を、もう戻ってくる人たちがいる。手に「お別れの会」のパンフレットを持っている。そんな人たちとすれ違いながら、ホールに向かう。シンフォニー・ホール前の公園。テントと椅子が沢山設えられている。おそらくは、式典の模様を外で見ることが出来るようにしたのだろう。混雑もさほどではない。正面入り口から誘導に従い、エスカレーターに乗る。舞台正面に向かって右サイドの入り口手前でカーネーションを受け取った。

 ホールに入った。クワイヤ席両サイドを布で覆い、真正面に、大きな先生の写真。ステージ上にはオケの椅子がセットされ、舞台最前列あたりが献花台になっている。舞台サイドから正面の献花台に進み出て花を手向ける。頭の中が真っ白になった。ひたすら写真を見つめ、そして頭を垂れた。ホールの中では、ブルックナーの7番の第二楽章の録音が流れていた。立ち去りがたい思いでステージを横切り、反対側の出口に向かう。同じ思いの人が、みな、立って写真を見つめている。いつものような歓声と拍手はないけれど、心の中で「ブラーボ」を叫んでいた。

 スタッフから、「センター通路から後ろの席を解放しますのでおかけください」との案内。最初はセンター通路のすぐ後ろ、J列の真ん中に座った。しかしふと思いついて、移動。鞄から封筒を取り出す。幻になった「軌跡2002」のチケットを取り出す。席番を見る。J列38番。同じ列の右の方の席だった。そっと腰を下ろす。ステージと同じ目線で全体がよく見える、なかなか良い席だ。本当だったら4月から9月にかけて、この席でモーツァルトとチャイコフスキーを聴くはずだったのに。ふっと心がゆるんだら、涙が溢れてきた。40日経って、先生のところに来て、やっと、ゆっくりと泣くことができた。

 しばしの後、平静をとりもどして、ぼんやりとステージ上の献花の様子を眺めていた。次々と訪れる人たち。年輩の方々は、私など及びもつかないくらい、太い絆で結ばれていたのだろう。いつも東京の演奏会で見かけ、昨年の軌跡2001にも来ていた人を見つけた。ホールでは、ブルックナーの緩徐楽章が流れている。7番、2番、8番、そして、幻となった3番。

 午後3時。3番の第二楽章が終わったところで、BGMが止まった。ステージに大フィルのメンバーが登場。指揮は外山雄三さん。ベートーヴェンの英雄の第2楽章が奏でられた。考えてみれば、朝比奈先生以外の棒で大フィルを聴いたのは、これが初めて。良い音だった。演奏が終わって外山さんが退場。オケのメンバーも静かに退場していく。みな、先生の写真を見上げていく。

 再びBGMのなか、献花が続いていく。お母さんに手を引かれた小学生の女の子が花を供えている。この子は先生の生演奏に「間に合った」のだろうか・・・。そういえば、「楽は堂に満ちて」のなかに書かれていた「ベートーヴェンになりたい。またきてね。」という感想文を書いた子供は、いまどうしているのだろうか。そんな物思いに耽っているうちに、午後4時。献花の入り口が閉じられ、閉会が告げられた。先生の姿を照らしていた照明が消された。演奏会の終演の風景のようだ。しかし、今日ばかりは拍手を続けても再びライトがついて舞台袖の扉が開くことはない。また涙がこぼれてきた。

 席から起立し、先生を見つめる。いつも先生が我々の拍手や歓呼に答礼してくださった姿には及ばないけれど、最後の別れのあいさつをする。後ろ髪を引かれるようにして、出口に向かう。先生がいつも終演後に答礼していた舞台左サイドでたちどまる。もう一度、心の中で「ブラーボ!」と叫んだ。

 階下に降り、お別れの会の式次第の冊子を受け取った。出口のところで、時間に遅れて献花が出来なかった女性がいた。どんな様子だったか尋ねていたので、かいつまんで説明して差し上げ、デジカメに納めた映像をお見せした。

 これで終わりか・・・。ホール前のベンチに腰掛け、事務所に連絡をして、さて、と思ったところに、先ほどの女性を含む3名ほどの方から声をかけられた。
「先ほどはありがとうございました。あなたも朝比奈さんを良く聴かれてるんですか?」
「ええ。今日は東京から来ました。」さすがに、ちょっと驚かれた様子だった。
「もし、よろしければ、おしゃべりしていきませんか?」と誘われ、ホール脇の喫茶店へ。お互いに名前も名乗らず、朝比奈先生と大フィルの話を続けた。3名のうちのお二人は大フィルの合唱団に所属しておられる(た)方、もうお一方は、京都からいらっしゃった方だった。

 小一時間ほど、コーヒーとサンドイッチを楽しみながら、思い出を語った。私は東京定期や在京オケへの客演の様子を、お二人からは、扇町のプールの地下に練習場があった頃のお話など、なかなか興味深かった。話は自然と「これからの大フィル」のことに及んでいった。良くも悪くも、朝比奈隆という個人が求心力となっていたことは否めない。その核が失われて生き残っていけるのか。
「我々が崩壊する?とんでもない。我々は、いつも言っています。『指揮者は旅人のごとく来たり、去る』と」
これは、カラヤン&ベルリンフィルの来日公演の際の特番で当時のコンサートマスターであったミシェル・シュヴァルヴェがインタビューで「カラヤンがいなくなったらベルリン・フィルは崩壊しますか?」という質問に対して行った答えである。特定の指揮者を失って崩壊したオーケストラもある。しかし、それは、オーケストラが、その指揮者の楽器として作られた場合のこと。大フィルはそんなヤワなオケではあるまい。したたかに生き抜くはずだ。そして今年も「東京定期」が聞けるはずだ。

 そんな話をしているうちに、午後5時を過ぎた。喫茶店を後にして、歩いて大阪駅に向かうことにした。シンフォニーホールの前で、ちょっと立ち止まった。「もう一度、ここを訪れることがあるのだろうか...。」と、胸が締め付けられるような気持ちになった。皆でシンフォニーホール横の「レオノーレ」という音楽グッズの店に立ち寄った。しかし、ここも閉鎖してフェスティバルホールの下の店舗に統合されるとか。

 トボトボと歩きながら、また音楽の話を続けた。残念ながら東京では身の回りにここまで深く朝比奈/大フィルについて語れる仲間はいなかった(ごくごく身近に敵はいても(笑))。本当にきて良かった。大阪駅のヨドバシカメラ前で解散。お互いに名前も名乗らず音楽の話だけをして別れた。ちょっとだけ、ヨドバシカメラを探検してから、地下鉄に乗り、新大阪駅に向かう。新幹線に乗り、東京へ。車内で、お別れの会のパンフレットを眺める。普段ならば演奏の余韻に浸る帰路であるが、今日は何もない。ただひたすら東京に着くのを待つだけであった。
 何事もなく、午後9時30分過ぎに東京着。帰宅は午後10時過ぎであった。

 終わった...。最後の巡礼の旅が終わった。

 朝比奈隆という「人間」を直接聴くことは、もうできなくなった。しかし、今までの先生との対話を、これからの自分の人生に生かしてこそ、先生の音楽を追いかけてきた甲斐があるというものだ。先生の音楽にふれていると、耳に心地よい理念や、威勢の良いだけのかけ声など何の価値もないことが、なぜか見えてくる。そういう「ゴミ」を排除する目を養うためにも、先生の音楽に触れ、芸談に触れて行くことを続けたい。

 さて。お別れの会から1ヶ月がすぎた。もう落ち込んでいるときではない。
(2002年3月10日校了)

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