新日本フィル2月定期演奏会(トリフォニーA)


日 時:平成11年2月18日(木)午後7時15分〜
場 所:すみだトリフォニーホール
出 演:曽根麻矢子(チェンバロ)
    堀米ゆず子(ヴァイオリン)
    山田綾子(ソプラノ)
    小川明子(メゾ・ソプラノ)
    栗友会合唱団(合唱)
    栗山文昭(合唱指揮)
    新日本フィルハーモニー交響楽団(管弦楽)
    岩城宏之(指揮)
曲 目:J.S.バッハ/チェンバロ協奏曲第3番
    湯浅譲二/ヴァイオリン協奏曲"in memory of Takemitsu"
    リゲティ/レクイエム


 前月は、N響の日程の関係で、オーチャードに振り替えて聴きましたが、今月はトリフォニーに復帰です。

 バッハのチェンバロ協奏曲第3番といわれて、どんな曲だったかな〜と思っていたのですが、曲が始まって、「ああ。この曲ね!」。たしかヴァイオリン協奏曲にも編曲されていた超ポピュラーな曲でした。しかし、こういう曲を生で聴くのは、物凄く久しぶりです。高校生のときにミュンヒンガーの指揮で「音楽の捧げもの」を聴いて以来です。

 オケは超小編成で、チェンバロを囲むように配置。弦の各パート4人くらいだったでしょうか。チェンバロは、装飾のある美しいものでした。1階席でしたから、チェンバロの音色も良く聞こえました。サポートする弦楽合奏も、つややかで良い音色を出していました。

 二曲目の湯浅譲二のヴァイオリン協奏曲。一言でいえば「予想外」。予想外にどうなのかというと、予想外に美しかったです。私がそう感じた原因は、オケパートで、たっぷりと弦を使っていたところにあると思います。波のような弦楽合奏の海の中を、独奏ヴァイオリンが泳いでいくといったところでしょうか。どうも現代曲というと打楽器と管楽器が強くて、とんがっているというイメージがあるのですが、この曲はちょっと違いました。

 休憩でエントランスホールに出てみたら、普段はごった返しているのに、人気が少ない。1階席も、普段同じ顔が来る(つまり定期会員と思われる)私の2つ隣、3つ隣の席があいている。2階席、3階席がどうなっていたかは判りませんが、「切符ははけても人は来ず」というのでは・・・。

 で、後半のリゲティの「レクイエム」。

 一言でいえば「唖然としているうちに終わってしまい、さまざまな悩みを残してくれた」という感じです。途中で、バルトークを思わせるような節回しがチラと出てきたところはあったが、あとは、古典的な意味での「ハーモニー」「メロディー」の対極にあるような作曲技法を徹底した作品。行き着くところまで行き着いたという印象でした。

 物凄い前衛なようでいて、物凄い打楽器の音や、金管のパッセージは、ヴェルディのレクイエムに共通する様式を感じさせてくれたりして、思わず含み笑いしてしまった部分もありました。

 ただ、今回は、演奏の善し悪しよりも、曲そのものに対する戸惑いの気持ちのほうが先行してしまいます。「あのような難曲をよくもまあ歌いこなすものだ」という称賛を贈るのは簡単なことです。声についていえば、なんであんな音が取れるのか、リズムをきちんととれるのかという・・・。大学時代、柴田南雄の「三つの無伴奏男声合唱曲」というのを歌って、そのなかの「秋」という曲に難行苦行し、それどころか、多田武彦の独特の節回しすらやっと歌いこなしていた自分とすれば、ああいう曲を乱れなく歌えるというのは、もう、人間業とは思えません。

 しかし、それと同時に、−これは演奏の問題ではなく曲の問題ですが−人間の声をあそこまで楽器のように扱ってよいのか、という強い違和感を抱いたのです。これは今までにないことでした。もちろん、「うたとはかくあるべし」などという教条主義的主張を振り回すつもりはないです。声のもつ可能性を徹底的に追求していけば、ああいう方向も出てくるでしょう。「これも歌、あれも歌」です。でも、リゲティの手法は、私の許容範囲を超えていました。これも自分としてはショックでした。結構守備範囲が広いと思っていたから。

 さらに思いきり脱線します。リゲティのレクイエムは、たとえていえば、全日本プロレスではなく、UWFです。ロープワーク、場外乱闘、凶器、飛び技等、見せる「ためにする」要素をすべて廃し、勝敗という結果に究極の価値を見いだす。客席から見えない、グラウンドのせめぎあいで、一瞬にして勝敗が決まることがある。ラリアットや雪崩式DDTのような、大きなムーヴメントがないから、そういうものを期待して足を運んだ客は、置いてきぼりにされます。

 これに対して、たとえば、そうだなあ・・・。ウィーン・リングアンサンブルは、全日本プロレスでしょう。エジプト行進曲のコスプレや歌、常動曲の「イツマデモツヅキマス」、そしてアンコールの2曲(「青きドナウ」「手拍子つきラデツキー」)とかは、様式美の域に達しています。ラッシャー木村のマイクに通じるところがある。無論、卓越した演奏がベースにあります。「明るく、楽しく、(技術的に)激しいコンサート」でしょう。

 両者について、どちらが正しいとか本筋だとかを論じても意味はないと思います。好き嫌いについては人それぞれあるので、それはいろいろ出てくるでしょう。私の嗜好を言えば、先に述べたように、あそこまで徹底して「さあ、どうだ」と出されてしまうと、「凄いのは判るけど...」としか言いようがない。

 私の感想を短くまとめると 「あのような想像を絶する難曲を見事に演奏した(であろう)演奏者の技術の高さには、心からの拍手を贈りたい。ただし、少なくとも今の自分が音楽に対して求めているものを、リゲティのレクイエムという曲から得ることはできなかった。」 ということになります。
======================= 1999-02-25 (Thu) 00:45:38 ====================


コンサート・レポート99目次に戻る